2016年




ーーー8/2−−− 蚊帳 


 
テレビドラマで昭和の暮らしが再現されていて、その中に蚊帳(かや)が登場していた。見ていて、なんだかとても懐かしい思いがした。

 小学生の頃、東京都中野区に住んでいた。住宅は、父が勤める会社の社宅で、木造の平屋だった。住宅街とはいえ、その当時はまだ昔風の生活スタイルの家が多かった。夕時になると、家々の煙突から煙が立ち上った。我が家も、台所はガスだったが、風呂は薪を焚く釜だった。宅地には空間にゆとりが多く、うっそうと植物が茂る家もあった。我が家も庭に大きな銀杏の樹があり、それに登ると、屋根を重ねる武蔵野の彼方に、富士山が望まれた。

 そんな環境だったので、蚊も多かったのだと思う。夏には毎晩蚊帳を張った。家族四人が八畳間に寝たのだが、その部屋全体を蚊帳で覆ったのである。今となっては、何故そのように大掛かりな対策を施さなければならなかったのかと思う。現代なら、網戸で蚊の侵入を防ぎ、それでも紛れ込んできたものは、蚊取り線香でやっつけるというのが普通だと思う。当時は網戸が無かったのか。有っても不完全で、あまり効果が上がらなかったのか。ともかく、蚊帳を張らなければ、夜眠ることが出来なかったのだ。

 蚊帳を張るときは、中に蚊が入らないようにすることが肝心だ。夜になり、布団を敷き終わったら、押入れから蚊帳を取り出して、部屋の中央に置く。そして、四隅を引っ張って、徐々に広げる。四隅の紐を、長押から引いた張り綱に繋ぐ。紐の先端には、直径10センチほどの白いリングが付いていて、そのリングに張り綱を通して引っ張るのである。蚊帳を張り終わると、その輪が薄暗い天井の下の空間に浮かんで見えた。どういうわけかこの白い輪が、私にとって蚊帳の印象の、大きな部分を占めている。 

 蚊帳の裾は、床にぎりぎり接するようでは良くない。長めに余った部分が、外に向って床を覆うくらいでないと、虫が入ってくる。蚊帳に出入りするときは、身体を低くして、なるべく裾を上げないようにしてくぐる。そういう動作を、大袈裟にやるのが楽しかった。

 蚊帳の内部に入ると、別世界のようだった。子ども心に、思わず興奮した。蚊帳の天井にぬいぐるみや人形などを投げ上げ、下から突いたり、枕をぶつけたりするのが面白かった。それをやるたびに、蚊帳が傷むと、親から叱られた。何もかも、いつもと違って面白かった。夏の一時期、蚊帳は子どもらにとって、興奮と楽しみを与える、とっておきのアイテムだったのである。




ーーー8/9−−− 追われる恐怖


 
高速道を運転しているとき、たまに前後に全く車が居なくなることがある。そういうときは、余計な神経を使わなくて済み、リラックスして走れる。しかしそれも束の間、じきにバックミラーに車影が浮かぶ。その車が接近し、後ろに付き、さらに追い越されるまで、どれくらいの時間がかかるかと予想する。そんな時、昔見た映画を思い出す。

 戦争中の出来事である。一隻の軍艦が、大洋の只中を航行している。周囲の大海原は360度、何も遮る物が無い。ところがある瞬間、見張りが水平線上に、ポツンと小さな船影を発見した。

 まずは、敵か味方かも分からない。灯火信号を送るが、返事が無い。どうやら敵艦のようである。

 敵艦は少しずつ近づいて来る。双眼鏡で船の外形が認められるようになった。敵の艦船を識別するための図鑑のような書類がある。それをブリッジのテーブルに広げ、艦長以下の将校が額を寄せて検討をする。

 結論が出た。敵艦の正体が分かったのである。すぐさまその艦の性能データが読み上げられる。速度は本艦より速く、主砲の射程距離も長い。極めて深刻な状況であることが判明した。

 速度の差を元に計算をすると、全速力で逃げても、3時間後くらいには敵艦の射程距離内に入る。敵も本艦の素性を把握しているだろうから、こちらの射程距離内には近づかないだろう。となると、本艦は攻撃を受けるだけで、反撃は出来ないことになる。一方的にやられてしまうわけだ。

 味方の軍に無線を入れて、援護を求めたが、最も近い軍艦でもかなり遠く、到着するまで数時間かかるとのこと。完全に孤立したまま、敵艦と向かい合わねばならない。

 重苦しい雰囲気の中、時間は過ぎ、敵艦が砲撃を開始した。近くの海面に着弾し、水しぶきが上がる。こういう状況に対応すべく、煙幕の設備が備えられている。それを作動して、白煙を放出する。そして、ジグザクに進むよう舵を取る。苦肉の策である。

 それでもついに、被弾した。機関部がやられ、モクモクと黒煙が発生する。速力がガクッと落ちた。黒煙を引きずりながら、喘ぐように進む。敵艦の攻撃は、容赦なく続く。やがて終わりの時が・・・

 戦争映画には、ドラマがある。娯楽として見れば、ドキドキ、ハラハラで面白い。しかし、実際にこのような場面の当事者だったら、どうだろうか。機械の、兵器の性能の違いで、味方の兵の生命が奪われる。兵には何の責任も無い。その理不尽さを胸に抱きながら、海に沈むのである。

 



ーーー8/16−−− マレットゴルフ講習会


 
先日、マレットゴルフの初心者講習会に参加した。日本マレットゴルフ協会公認A級指導員が教えてくれるというので、おおいに期待した。打球フォームや戦術などについて、専門家から手ほどきを受けた事は、これまで無かったのである。

 会場のマレットゴルフ場に着くと、まずプレハブの建物に入った。そこでルールやマナーの講義を受けた。その講義の内容に、響くものがあった。

 「マレットゴルフの目的は、健康作りと仲間作り。楽しんでやることが大切です。しかし、楽しむというのはワイワイ騒ぎながら回るという意味ではありません。ルールとマナーを守ってプレイをするということに、楽しさがあるのです」

 「一人でプレーするのも良いですが、できれば居合わせた人と一緒に回ってみて下さい。そうすると、別の楽しさに気が付きます。各地の愛好会の定例大会は、ほとんどオープン試合ですから、そういう機会も利用して下さい」

 そういう話を聞いて、思い出した。

 私の父は、けっこう若い頃からゴルフに親しんでいた。昭和30年代、まだゴルフが大衆化する前の時期である。後年、その当時を振り返って、こんな事を言っていた「最近はマナーをわきまえない連中がゴルフ場に来るようになって、つまらない。仲間でやって来て、騒ぎながらコースを回って迷惑だ。昔は、ゴルフ場へは一人で行ったものだ。そこで初対面の人と出会い、一緒にコースを回り、昼食を挟んで共に一日を過ごす。その一期一会の付き合いを楽しんだものだ」

 父が懐かしんだ時代のゴルフは、いわば上流階級のレジャーだった。自分たちは特別であるという意識を共有する人々の楽しみだったのである。それに比べて、この地のマレットゴルフは、一般市民のものだ。分け隔てなく、人々が交流する場なのである。半世紀前に理想とされたゴルフの楽しみ方が、この地ではマレットゴルフに於いて、いっそう裾野を広げて浸透しつつある。

 講義を終えると、コースに出て、4人一組で指導員と共に実際のプレーをした。冒頭指導員から「打ち方は各自自由に、やりたいようにやって下さい」と言われた。これはちょっと期待外れだった。それでも、プレーをしながら、指導員の口から、あるいは地元愛好会のメンバーの口から、何度も適切なアドバイスが出た。「公式試合の時は、選手同士のアドバイスは禁止ですがね」などと言いつつ。

 信州人は、一見愛想が無く、社交的とは言いがたい印象が一般的である。そんな既成概念が払拭されるほど、マレットゴルフ場の人々はフレンドリーで気さくだった。「信州人も、良い人たちじゃないか」と思えたくらいである。

 さて、コースを回り終えた後、指導員に「ボールを打つ強弱がポイントでしょうか?」と聞くと、「私は打球面の中心でボールを捉える事が一番大切だと思います」との答えが返ってきた。確かに、ボールを芯で捉えなければ、コースが狂うし、強弱の加減も安定しない。さりげない言葉の中に、A級指導員の力量が感じられた。





ーーー8/23−−− 言葉を身につける


 長女が第二子出産のため、帰省している。二年前に生まれた最初の子、私にとっては初孫になる「はるちゃん」も一緒である。人見知りが強く、母親以外には気を許さないはるちゃんに、家内は不安を抱いている。出産前後は母親が入院するので、家内と私がはるちゃんの面倒を見なければならない。終日泣かれるような事になったらどうしよう、という不安である。

 それはともかく、はるちゃんの挙動を見ていると面白く、飽きない。特に言葉を身に付ける過程は、興味深い。何故言葉を習得できるのかと、不思議に感じたりもする。

 文化は言語によって伝えられる。言語文化もそうである。外国語を習得する際には、母国語に置き換えながら学ぶのが普通である。ところが、新生児はその言語を持たずして、言語文化を身に付けるのである。これは無から有を生み出すことになり、論理的に言えば、不可能とされても不思議ではない。コンピューターにこのような課題を押し付けたら、実行不可能なコマンドとして拒絶されるのではないかと思う。

 そんな話を、帰省していた息子に話したら、そうでもないと言った。現代のコンピューターは、人間が知識としての情報をインプットせず、無作為的に画像を取り込ませることにより、モノを判断する能力を持たせることが出来るらしい。例えば、リンゴを認識させるのに、以前なら「植物の実」、「丸い」、「直径10センチ前後」、「赤い」などの情報をインプットして識別させた。

 ところが現在では、そういう情報を与えず、膨大な量のリンゴの画像を与え、それを取り込ませることによって識別能力を与えるというシステムがあるそうだ。囲碁に於いて、近頃急速にコンピューターが強くなった背景には、そのような新しいシステムが開発されたことがあるらしい。そうだとすると、幼児の頭のしくみは、最新のコンピューターと同レベルということにもなろうか。

 教職課程を履修し、少しは教育理論などの知識がある息子は、さらに言う。ヨーロッパの先進国の間でも、近代までは、新生児が言葉を話せるようになるのは、先天的な能力だと考えられていた。ある程度の年月が経てば、自然に話せるようになると思われていたのである。しかし、狼に育てられた子供が発見されたり、カスパーハウザーの事件が起きたりして、その定説は覆された。つまり言語の獲得は後天的なものであり、人間社会に身を置かなければ、永久に身に付かない事が分かったのである。そのような気付きにより、子供に対する社会の影響、とりわけ教育の重要性が認識されるに至ったという。現代の教育理論は、そのような背景から生まれたものであると。




ーーー8/30−−− ペットボトルの使い道


 若かった頃、と言ってもほんの20年ほど前まで、登山に使う水筒は「ポリタン」だった。この名は、ポリエチレン製のタンクの略である。縦長の長方形をした半透明の容器に、オレンジ色のキャップが付いているもの。大きさはいくつかあったが、2リットルが主流だった。これは、夏山の一日で、大人一人が飲む水の量の目安にほぼ合致している。

 丈夫で壊れにくく、水漏れの心配も無く、ザックの中での納まりも良いので、誰もがこぞってこれを使った。パーティーの全員が同じものを使っていたので、マジックで名前を書いて識別する必要があったくらいである。マジックで書かれた文字が消えにくいという利点もあった。

 唯一の欠点は、水がビニール臭くなることだった。と言っても、別に気にするほどのことではない。お構い無しに、生ぬるいビニール臭い水をグイグイ飲んだものである。山で飲む水に、美味しいもまずいも無い、というひと言で片が付く程度の事だった。

 水の味にこだわる登山者もいた。そういう人は、金属製の水筒を使っていた。外国製の比較的高価な品物で、ワインを入れても味が変わらないというキャッチフレーズのものもあった。キャップは、捻じ込み式だけでなく、ワイヤーを使ったワンタッチ式の物もあった。ある山行では、そのワンタッチがザックの中で解除され、ザックの中が水浸しになった人もいた。

 数年前から、ペットボトルを水筒がわりに使うようになった。それ以前にも、ペットボトルをポリタンの代用として使う人が身近に現れたが、なんとなく邪道のような気がして、真似をする気になれなかった。ところが一回試しに使ってみたら、思いの外気に入った。現在では、ポリタンを使うケースはほとんど無い。ほぼ完全に、ペットボトルに取って代わられた。

 ペットボトルは、円筒形で、先が尖っているものが多い。ザックに収納するには不向きな形状である。コンビニでスポーツドリンクを買う際は、意識して四角い形のボトルを選ぶ。パッキングに有利だからである。そういう問題点を抱えながら、ペットボトルを使うようになったのは何故か? ビニール臭が無いからか、それとも透明で中身がはっきりと見え、清潔感や清涼感があるからか。それらもさることながら、廃棄されるものを再利用するという、気安さ、気軽さが、使用感にプラスの効果を与えているようにも思う。

 ところで、突飛かつ下世話な想像だが、仮にタイムマシンが出来て、過去の時代に現代の品物を持って行けるとしたら、何が一番金儲けに繋がるか。私は、ペットボトルの空き瓶が、有力候補の一つになると思う。例えば江戸時代。水筒と言えば、瓢箪か竹筒である。どちらも壊れ易く、衛生面でも注意が必要。また、容器の外から中身を確認することが出来ない。密閉性にも難がある。そこにペットボトルが登場すれば、こんなに便利なものは無い。間違いなく人々が飛び付くだろう。しかも原価はタダ。紀伊国屋文左衛門のミカンどころではない。飛ぶように売れ、ぼろ儲け間違いなしである。

 道中合羽に三度笠姿の旅人が、木陰に腰を下ろし、おもむろに懐中からペットボトルを取り出し、ちょいと捻ってキャップを開け、美味そうに水を飲む。そんな光景が、そこらじゅうの街道筋で見られることだろう。

 そんなに便利で有用なモノが、現代社会ではほぼ100パーセント、廃棄され潰されている。







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